2018/06/05

何者かになりたい(その2)
コツコツ流家元であり、コツコツ流ドットコムの執筆者、私豊田礼人(とよたあやと)のコツコツ流ストーリーを2回に渡ってお届けします。今回はその2。
【前回までのあらすじ】
東証一部の上場企業を辞めてまでチャレンジした資格試験(中小企業診断士)になかなか合格できず、もがき苦しむ豊田。家族を抱え、がけっぷちの状況で、果たして合格するのか、それともあきらめるのか・・・。→前回(その1)はこちらから。
経営に困っている会社が、お金払えるの?それで食えるの?
アートスクール出身の妻にとって、中小企業診断士は謎の資格だった。弁護士は知っている。税理士もわかる。公認会計士もなんとなくわかる。でも中小企業診断士はわからない。だからボクが説明する。
ボク「経営に困っている会社を助ける仕事なんだよ」
妻「経営に困っている会社が、お金払えるの?それで食えるの?」
・・・女はいつもスルドイ。
「とにかく、人のためになる仕事なんだよ!」
こういうやりとりをしながらも、なんだかんだ応援してくれる妻のためにも、今年こそは受かりたいと思っていたのだが・・・。
そして、いよいよ発表当日。インターネットで発表を見た。暗黒時代から抜け出せるのか、それとももう一年頑張るのか。正直、仮に落ちていたとしても、あきらめる気持ちは毛頭なかった。だけど、そろそろ勘弁して神様!というのが本心だった。
クリックしてページを開く。
・・・合格していた。
無機質な数字の羅列の中に、見覚えのある自分の番号が目に飛び込んできた。去年までは冷たく感じた数字だけの掲示板が、今日はとても暖かく感じた。
いつまでも見ていたい気分だった。
その時、神風が吹いた
春になり、中小企業診断士として無事に登録された。夢が現実になった。しかし、問題はこれからだ。今まではいわば準備期間だ。なにしろ「食えない資格」だ。この資格でどうやって「食っていくか」の方が重大な問題である。
サラリーマンは相変わらず続けていた。仕事が終わった後や、休みの日に中小企業診断協会が行う集まりに参加したり、仲間の診断士と情報交換をしたりしていたが、独立のきっかけはなかなか訪れなかった。独立するのは、やっぱり怖い。それに自分に独立できる器量があるとはどうしても思えなかった。
そうこうしているうちに、ある事柄がきっかけで、勤めていた人材サービス会社の社長と取締役をむこうにまわして大ケンカをしてしまった。
詳しくは書けないが、ボクは今でも自分がした行動を正しいと思っている。しかし当時は最悪の状況だった。それで、「これも神様がくれたきっかけだ」と思い、辞表を出した。転職する気はない。独立しか頭になかった。
人材会社で働いていて、数知れない人の履歴書を見てきた。そこで転職が上手くいく人といかない人の差は何だろうと常に考えていた。立派な大学を出て、立派な会社に勤めていても、何らかの理由で辞め、そして低いほうへ流されながら歳をとり、いつしか行き場が無くなる人がいる。かと思えば、学歴こそ低いが、生き生きと仕事をしている人もいる。この違いを生むのは、何なのだろう。他人の履歴書を見ながら、自分の人生に照らし合わせ、色々なことを考えた。
その結果、仕事人として上手くいくかいかないかは、その人に「ストーリー」があるか無いかで決まるのではないか、と思うに至った。
転職を同じ回数繰り返していても、ストーリーがきちんとある人は、次も良い職場が見つかる。ストーリーが無い人は、厳しい。自分のやりたいことが明確にあり、それに沿って行動してきた人は評価される。それが社会だ。その場しのぎで逃げてきた人は、いくら優秀でも、評価されない。ストーリーは、つまりその人の戦略だ。
ボクのストーリーは、コンサルティングの仕事がしたくて、中小企業診断士を目指した。それがきっかけで新卒で入った会社を辞めた。それで食うためにベンチャーで働きながら、資格を取得した。それなのに、「怖い」という理由で独立しないということは、ストーリーがつながらない。たとえ失敗したとしても、チャレンジしたという事実はストーリー的にはつながる。だから必ず誰かが評価してくれるはずだ。そういう確信があった。
しかし子供を生んだばかりの妻は、さすがに戸惑った。印刷会社を辞めた時のように、自分が働きに出ることもできないからだ。中小企業診断士に対する「霧」が晴れていないことも大きいのだろう。独立しても「客」のあては無い。収入がゼロになる。その恐怖に心臓が止まりそうになる。
でも、後戻りはできない。辞表は受理されていた。社長との関係も壊れてしまった。※注)後日この社長とは和解し、今でも仕事面で支援して頂いている。
サラリーマンの子供が、サラリーマンとして生き、ある日、独立する。これは本当に恐ろしいことだ。いきなり大海原に小舟で放り出されたような気持ちになる。親もサラリーマンだったから、独立して自営する身近な見本がいない。まさに未知の世界だ。
その時、神風が吹いた。
辞表を出した日の2日後に、電話が鳴った。妻が受話器をとった。
妻 「はい、豊田です。え?先生いますかって・・? あ!ちょっとお待ちください」
ボク 「誰?」
妻 「知らない。でも豊田先生いますかって言っているわよ。あなたのことじゃないの?先生なんて、笑っちゃうけど。」
売上が減ってきて困っている会社からの問い合わせだった。ボクが地道に運営していたホームページと毎週発行していたメールマガジンを見て電話をしてくれたのだ。これも、たまたま読んだ本に「独立したいのなら、ホームページを作って、メールマガジンを発行せよ」と書いてあったのを真に受けてやっていたものだ。あらためて情報発信の大切さを思い知った。
ついこの間までダメダメ受験生だった自分が、いきなり「先生」になってしまった瞬間でもあった。(先生面する気はさらさら無いけど)
その会社から出てきたとき、マジで飛び上がった
さっそくその会社に出向き、経営者からヒアリングをした。そして、夜を徹して作った企画書を持って、再び訪問した。見積書とスケジュール表もつけた。内容は、売上増加のために会社として取り組むべきことの整理整頓をメインにしたものだ。決して奇抜なアイデアではない。ただ、熱意を伝えるのみだ。
こっちは資格をとるために、8年もかけたのだ。この崖っぷちで負けるわけにはいかない。赤ん坊とローンを抱えて収入ゼロになるかも知れないギリギリのところに立っている。これほど大荷物を背負ったプレゼンは生まれて初めてだ。額から汗がダラダラ流れる。そのオーラが目の前の経営陣に通じたのか。
契約成立。年間300万円の1年契約。
「とりあえず、食える・・。」
率直な気持ちだった。
その会社から出てきた時、マジで飛び上がった。仕事中に飛び上がったのも生まれて初めてだ。カバンを放り投げてグルグル振り廻したい気分だった。「ヤッホー」とは、こういう時に使う言葉なのだ、とその時知った。
この世には、空白ができると空白を埋めようとする力が自然に働く、とカリスマコンサルタントの神田昌典さんが言っていた。まさにその体験をした。ダイヤモンドをつかむためには、今握っている小石を手放せ、ということなのかもしれない。とにかく目に見えない力が働いたとしか思えない。だって、辞表を出した2日後に仕事依頼の電話が鳴るなんて、ある意味ホラーでしょ?
試験に落ち続けていた時は、
「神様なんているわけがない」
と思っていた。
でも神様は、確かにいたのだ。
それを可能にするだけの力をつけるために日々努力する
契約書を取り交わし、コンサル業務が始まった。はっきり言って、ペーパードライバーのコンサルタントだ。でもやるしかない。やらなければボクは死ぬ。必死で調べ、質問し、提案した。
クライントに深く入り込むと、色々なことが見えてくる。外部の者だからこそ見えることがたくさんある。それを整理整頓して指摘する。具体的行動を一緒に考える。当然出来ることと出来ないことがある。だから出来ることをコツコツやる。一回提案しても、分かってもらえないことの方が断然多い。だからタイミングを見計らって何度も提案する。
「何となく」やっていたことをルール化し、紙に書く。日々の販売データを集計し、グラフにし、見える化する。会議を主催する。議事録を作成する。当たり前のことばかりだが、中小企業は出来ていない。やって当たり前のことをやるから、徐々に効き出す。そもそもやるべきことをやっていないのだから、やるだけで効果が出る。少しずつだが結果が出始めた。
毎日必死だった。結果がなかなか出ないときには、契約を解除されるのではないか、と胃が痛くなった。でも、独立とはそういうことだ。結果次第で仕事を失う。その緊張感の中で、やれるだけのことをやる。
本もたくさん読んだ。コンサルスキルを上げるためのセミナーにも出た。メルマガ読者を増やすために、有料広告も出した。売上を上げるために、必要なお金はどんどん使った。
そういう活動を続けるうちに、メルマガの読者も増え、ポツ、ポツと問い合わせが入るようになった。また、こういうボクの活動をみて友人が仕事を紹介してくれたり、旧知の社長からコンサル依頼が来たりして、ビジネスがまわり始めた。小学校時代の友達が地元の商工会でのセミナーの仕事を回してくれたりもした。
ロゴマーク作成サービスも好評で、何件か受注した。これは優秀なグラフィックデザイナーだった妻が担当するメニューだ。ボクが社長の思いをしっかり聴いた上でデザイン案を提案するので、100%気に入ってくれる。これは、ただ予算を消化していた印刷会社時代の反省が生きている。人生で経験することで無駄なことはないのだ。
ボクのコンサルの特徴は、社長の頭の中でぐちゃぐちゃになっている悩みや課題を一旦吐き出してもらった上で整理整頓し、財務視点もしっかり押さえた上で、販売戦略を構築し、社長・社員さんと一緒に具体的行動を考え、実行していくことである。経営数値に疎い営業畑・技術畑出身の若社長の参謀として期待されている。
目標に比べてまだまだ満足できるレベルの仕事では無いが、試験に落ち続けていた「どん底最低悶々時代」には考えられなかった状況で仕事をさせてもらっている。試験に受かることだけが目的化し、実際にコンサルの仕事をすることなど全くイメージできなかった暗黒の時代があった。しかし今は実践している自分がいる。このギャップに本当に驚く。
自分の無力さを思い知り、落ち込むこともある。しかし、名古屋で最も実力があり、最も親身で、信頼感抜群のコンサルタントを目指し、今日も頑張るのみだ。
中小企業診断士で食えるのか。この大命題の答えを探るべく、ただいま実験中だ。豊田のストーリーの結末はどうなるのか。ハッピーエンドか、それとも波乱万丈か・・
人生は思い通りにはならない。3度目の正直という言葉も、たぶん嘘だ。
でもあきらめないで粘ったときに、何かが起こる。それは神様なのか、宇宙の力なのか。
ある会社の社長が言ってくれた言葉が印象的で、今も頭に残っている。
「豊田君、君のやろうとしている仕事は大変な仕事だと思う。でもそれは、本当にいい仕事だ。だから、頑張れ」
僕を必要としている人がいる限り、必ずその人を助ける。それを可能にするだけの力をつけるために日々努力する。あきらめずに頑張りたい。
なんとかして、妻の中小企業診断士に対する「霧」をスカーッと晴らしたいし。
今、そんな気分だ。